jippiniusの自然科学研究

ジッピニウスの自然科学や技術関連についての備忘録です。

玉川徹氏への朝日新聞記者による批判

朝日新聞関連のネット記事に、朝日新聞記者によるテレビ朝日のコメンテーターである玉川氏への批判が書かれていた。テレビ朝日朝日新聞のジャーナリスト同士の意見の交換に物珍しさを感じて、最後まで読み通してしまったが、内容は(残念ながら)あまり面白いものではなかった。

ただ、このように異なる意見同士が議論を通してぶつかりあうことは健全だと思う。異なる意見を封じ込めようとして、政治的な手段を使ったり、経済的な締め付けをつかったりするのがもっとも悪い。相手の意見を尊重しつつ自分の意見を伝えるという行動こそが、「類人猿の世界から人間世界への脱却」がどの程度成し遂げられているかを測る目安になることを、以前読んだ"Demonic males"から最近学んだばかりである。

実は、今回の論争においても、"Demonic males"で議論された内容が関係している。それは「戦力の逐次投入」という玉川氏が使った言葉に対しての批判である。

周知のように「戦力の逐次投入」というのは旧日本軍がとった作戦方法であり、このやり方が物量に物を言わせる米軍の方法に太刀打ちできなかったことは有名な話である。「戦力の逐次投入」が機能しなかった典型例が太平洋の島々の防衛や、フィリピン戦における物資や戦力の補給だ。飛行機や兵力の増援を求める前線部隊からの必死の要請を却下した東京の大本営は、兵力や戦力を出し惜しみし、小出しに送り続ける。コスパを上げて戦え、というわけだ。大岡昇平氏の「レイテ戦記」などを読むと、日本の兵隊はよく戦ったとあるが、物量作戦で徹底的に対処してくる米軍との戦いは、「やられては増援要請、やられては増援要請」の繰り返しだったという。戦闘が繰り返されるたびに、日本兵は次第に肉体的にも精神的にも消耗していく。そして最後は、大岡氏が別の小説で描いたような「悲劇」へと突き進むことになる。

"Demonic males"で説明されていたのは、チンパンジー同士の縄張り争いや権力争いにおいては、まさに物量作戦でことが運ばれるのだという。それは人間社会に見られる「いじめ」とまさに同じである。

たとえば、アルファメイルの座を巡って争うどんぐりの背比べの2匹のオスザルの勝敗は、仲間集めのうまさで決まるらしい。バナナをたんまり食べさせるのか、メスザルを送り込むのか、どんな手を使うのかは知らないが、相手が知らないうちに、裏でこっそりと買収工作をして仲間を増やすのである。そして、「戦力」が十分整ったその日の夜に、「攻撃」を仕掛けるのだ。大勢で、たった一匹を囲んで追い詰めるのである。手加減はしない。降参したら許すとか、仲間になったら受け入れるとかではない。圧倒的な勢力を使って、相手を殲滅するまで(つまり殺してしまうまで)攻撃を続けるのだ。真正面から堂々と一対一で戦うことはしない。後ろから蹴る、殴るのである。相手が振り向いたら、別のチンパンジーがまた背後から殴るのである。

このように、チンパンジーの世界では圧倒的に戦力の差があるときだけ、「戦争」が始まるらしい。そして、いつも犠牲者は敗北者だけであり、勝利者には犠牲はまったくでないのである。これが我々人類が受け継いだ「圧倒的な物量作戦」の進化論的本質である。(米軍が驚いたのは、自分たちが勝利者であるにもかかわらず、「結構な犠牲者」が米軍側にも生じたことであろう。ただ、日本兵の死者数と比べれば、それは圧倒的に少なかったと思われるし、ましてや戦死した(一般の)日本国民とアメリカ国民の数を比べれば、それはやはりチンパンジーの「戦争」と同じ比率だったと思われる。)

玉川氏は、日本政府が新型コロナウイルスに「挑む戦い」の仕方が、「戦力の逐次投入」を行なった、旧日本軍と同じやり方に似ている、と指摘したのである。それは、特に、PCR検査をためらう日本政府の姿勢に対しての例えであった。

一方、玉川氏は、別の話題に対しては「戦力の逐次投入を推奨した」ので、それが「自己矛盾してないか」というのが、朝日新聞の記者の主張である。別の話題とは、自粛に協力する人々に対する支援金である。

自粛をすれば経済的な困窮が発生する。困窮が発生すれば、ウイルスに殺される前に経済的に殺されてしまう。したがって、多くの人々の命を救うために、経済損失を覚悟で「自粛する」企業や個人に対し、政府は経済支援をすべきである。これは、ウイルスとの戦いに協力してくれた「褒賞」のようなものだ。財政支援を使って経済的に彼らを守ることができれば、ウイルスの撃退は早期に達成できるし、撃退後に経済を速やかに回し始めることができる。したがって、経済支援はドブに捨てるような無駄金ではない。むしろ、積極的で前向きな投資だ、という意見は広く受け入れられていると思う。

この支援に対し、玉川氏は「10万を全国民に速やかに払い、足りなければさらに第二段、第三弾の支援を繰り返したっていいんです。とにかく、まずは最初に早く渡すことが大事です」と番組で発言したのだ。たしかに、「戦力の逐次投入」のように見える。しかしkこれは朝日新聞記者の「勉強不足」である。小刻みに何度も繰り返すことを「戦力の逐次投入」とは言わないのだ。それは単なる「逐次投入」である。「戦力の逐次投入」と「逐次投入」は全く違うのだ。「小林くんは人間だ。」は正しいとしてしても、「人間といえば、小林くんだ」と言ってしまうと批判が飛ぶはずである。逐次投入の中に「戦力の逐次投入」は含まれるが、「逐次投入」といえば「戦力の逐次投入」とはならないのである。

国民に少額の支援金を渡すことは、「支援の逐次投入」であって、それは「戦力の逐次投入」ではないのだ。「戦力」をわざわざつけるのは、それを投入することで、相手を「殲滅」するかどうかがかかっているからだ。

PCR検査を物量作戦で動員するのは、ウイルスを「殲滅」するためだ。情け容赦なく、ちょっとだけなら助けてやろうとかじゃなく、とにかく「敵を絶滅まで追い込む」のが、チンパンジーから進化した我々人類の戦法なのである。これは「戦力の逐次投入」などやっていては実現できない。物量で一気に追い込むのだ!

一方、財政支援は、我々人類同士の助け合いの話である。自粛に協力し、経済的に困窮した人を一気に殲滅させるためではない。「戦力の逐次投入」が批判されるのは、相手を殲滅させねばならない時にそれをやらないから、批判されるのである。

玉川氏が言いたかったのは、赤字国債が膨れ上がる日本の財政では、最初から数千万円の財政支援はできないのは明らかであるから、できる範囲内で支援するのはやむを得ないだろう。しかも、困窮者の中にはその日暮らしの人もいるから、わずか10万円の手渡しで救える命はたくさんある、と言いたかったのであろう。「手渡し」というのが、ここでは重要である。つまり、資料とか証明書とか、そういうものは要らないから、とにかく現金を取りに来い。だれでもいいから取りに来い。犯罪者が何度だまし取っていてもいいから、とにかく取りに来い。困っている人が救えるなら、とにかく渡すので、すぐに安心して取りに来い。「素早い支援」とはそういう意味だし、玉川氏もそう言っていたと思う。実際、ヨーロッパでは、証明書なしでとにかく支援金を現金でばらまいているらしい。

こういう、文字通りの「バラマキ」をやっておいてから、今度は事業者向けの支援金、文化事業者のための支援金、など時間のかかる支援(証明書が必要なもの)を2段目、3段目の方策としてやってもいいんじゃないか、というのが玉川氏の意見だったと思う。時間がかかるタイプの支援と、時間をかけずにやらねばならない支援を分けて、なんどでも行え、という意味だったと思う。これは「戦力の逐次投入」とは全く違うコンセプトであることは明らかだろう。

私は、玉川氏の崇拝者ではないし、無条件に弁護を買って出ているわけでもない。ただ、彼の権力に立ち向かう姿は民主主義の基本であり、科学的な事実や論理に基づく思考方法は、「チンパンジーの群れ」から脱却するために、人間が必要なことであると思い、そこには敬意を示したいと思うのである。

論理的に説明すれば新聞記者もきっと納得してくれることと思う。逆に、新聞記者がもっと論理的で、筋の通った説明で反論してくれれば、私も玉川氏もそれに従うのは言うまでもない。「相手の言うことをちゃんと聞く」のが文化であり、民主主義なのである。

さて、ここで「矛盾」が生じた。もし「チンパンジーからの脱却」を目指すのであれば、それこそ「戦力の逐次投入」を率先して採用し、相手を打ちのめすなんとことやめればよいのではないか、と。そこが、我々人類の「罪」なのである。チンパンジーと同類の遺伝子を持つ人類は、所詮は類人猿の系統なのである。DNAに刻まれたものを容易に切り離せないのだ。人類の生存を脅かす別の「もの」(ウイルスはRNAは持っているが、生命ではないので「もの」と表現する)との競合が発生すれば、「物量作戦で殲滅を図る」のが我々人類なのである。ここは本能に逆らうことなく動くしかないのである。

しかし、政略とか謀とか、そういう内輪揉めや、ボスザルの座を争うといった類の「競合」に際しては、なんとしても「チンバンジーの類からの脱却」を目指したいと思うのである。相手の言うことに耳を傾け、科学的な判断や論理に基づく「話し合い」によって、恣意のない合意形成を目指す、ことこそが「高い知性」への一歩であろう。「戦力の逐次投入」とか「物量攻撃」とかは、罪であることを認識しながら渋々使う、最後の手段みたいなものとするべきなのであろう。