jippiniusの自然科学研究

ジッピニウスの自然科学や技術関連についての備忘録です。

コロナウイルス 、パラダイムシフト、そして民主主義

 

コロナウイルスパラダイムシフト

5月に入り、我輩もオンライン講義の準備が忙しくなってきた。自分の準備も大変なのだが、この新しいやり方に後ろ向きな同僚たちにはっぱをかけてやる気を起こさせるのも一苦労だ。たしかに、昨日今日で、突然「オンラインでお願い」と言われた方も大変だと思うが、下手するとこれが「パラダイムシフト」になる可能性は十分あるから、なめてかかるわけにはいかない。インターネットが出てきて世の中ずいぶん変わったが、新型コロナウイルス が出てきて世の中が再び随分変わる可能性はある。

T.Pikettyの「Capital in the 21st century」にも書いてあったが、世の中に動乱がおきるとき、資本主義はリセットされる可能性があるのだ。いままで才能があってもチャンスがなく「既存のシステムに押さえ込まれ沈んでいた」人たちには絶好のチャンスかもしれないし、逆に大した能力がなくても生まれた時からなぜか大金持ちで、親から譲り受けた権力を握り、やりたい放題だった人たちは注意しないと失落するかもしれない。

貧乏学者だってチャンスがないとはいえないだろう。オンライン講義の準備の最中に驚くような大発明/大発見をしてしまう可能性だって0じゃない。やる気のない先生たちに呼びかけたい:「ちょっとしたきっかけで大きくリープできるかもしれないじゃないか、希望を持って行こう!」と。

感染隠し第2弾?

昨日も書いたが、東京の感染者が「政府の対策の効果により」減少してきた、という最近の流れに、「そうじゃないだろうが!」と怒りすら感じていたのであるが、いろいろな報道を聞いていると、最近「感染デマ」というのが巷で問題になっているそうで、その「感染デマ」が、「見かけの感染者数の減少」の原因になっているのではないかと、嫌な感じを感じたのである("I have a baaad feeling abou this"というStar Warsの有名なセリフ)。

「感染デマ」とは不明瞭な役人の説明を聞いた市民たちが、断片的な情報をもとに、勝手に想像を働かせ、あの人が感染者なんじゃないかとデマを流す問題である。昨日も書いたが、ちゃんとした情報を流さない役人が一番悪いのは明らかなのだが、デマの標的にされた人はいろいろと「嫌な目」にあうのだという。

「嫌な目」というのは一体んだろうか?ちょっと前まで、ハンセン病患者に対する差別があった(沖縄の例をちょっと前のドキュメンタリーで見た)。原爆に苦しむ人々を差別する空気があった(肥田舜太郎医師の本「内部被曝の脅威」を読んだ)。一番有名なのは、水俣病患者を差別した「日本人」の精神性だろう。救いの対象である患者は周囲によって徹底的に差別されたため、患者が出た家族は押し入れなどに病人を隠した、という話である。

今回の「感染デマ」はこれらの問題を日本人が解決しないまま、ここまできてしまったことを示唆しているのではないだろうか?ただしい数字を公表し、ただしく分析し、ただしく行動する。近代、現代の科学文明社会が踏襲すべき王道を日本人は放棄しているように見える。

背景はともあれ、このような「差別」が起きると、感染した人はできる限り感染の事実を隠そうとする。たとえば、感染すると首を切られる派遣社員もいるそうで、そういう人は正直に言えない空気が会社内にあるはずである。これは一種の「感染者隠し」ではないだろうか?今回は「自発的感染者隠し」である。最近の「感染者減少」はもしかして、この「自発的感染者隠し」が原因じゃないか?と疑っているくらいである。つまり、できるだけ症状を隠し、PCR検査をしないで済ませようという姿勢である。この姿勢が身の毛もよだつ恐ろしい結末をもたらすことは容易に想像できる。

「科学的な社会」の姿勢

会社全体の利益を考えれば、感染者に早く名乗り出てもらったほうがいいに決まっている。感染の可能性がある人を隔離できるし、隔離を早く治療し、彼らが早く回復してもらった方が、経済活動が早く再開するのは明白だ。

「感染したら首を切る。だから感染するな」というのは、科学的には劣った考え方である。感染を隠す人が出てくる。感染が会社内で広がる。会社の活動が止まる。こういう発想になぜなるのだろうか?

英国のジョンソン首相が感染する前後で、考え方が180度変わったのは有名な例かもしれない。感染前は、「英国は感染防止のための検査などはしない。自由に活動し、どんどん国民が感染すれば、集団免疫が自然にできるから、早くこの窮地を脱することができる。この病気は怖くない。80%は軽症で終わる。だが、集団免疫至るまでに犠牲になる人も若干出てくるかもしれない。それは、しかし、英国繁栄の観点からは、尊い犠牲であり無駄とはなりえないのだ!」などと息巻いていたのが、いざ自分が感染すると「人間の命に区別はなく、誰であっても感染者を救おうとするNHS(英国の医療システム)の医療従事者に対し、私の心は尊敬と感謝の念で一杯だ。この病気は怖い。みなさん感染してはいけない。家にいよう!忍耐なのだ。しばらくは忍耐の時間が続く可能性は高いが、家にいることで私たちはこのウイルスとの闘いにきっと勝てる。必ず光が射す日はやってくる!」などと別のトーンで息巻くようになった。

つまり、自分が「こちら」にいるのか、「あちら」にいるのか、ということで、人間は線を引きたがるということなのだろう。実際にはそんな線はない!だれでも感染する可能性はあるからだ。ウイルスはこの点に関しては究極的に「民主主義」だ。差別は「科学的民主主義」を理解できない人々によって発生していると思われる。感染/非感染という「身分制度」の罠にはまらず、科学的民主主義を持つ市民こそ「21世紀の市民」だろう。そして、パラダイムシフトは近づいているような感じなのだ。遅れた考えに囚われた国は、この難局を乗り越えられず、忘却されてしまうだろう。「感染者隠し」というのは(どんな形態であれ)前近代的な古いやり方であるのは間違いない!

追記:朝日新聞で見つけた記事

www.asahi.com